空室四号

ゲームコラム中心雑記ブログ

ボードゲームから見るシンギュラリティ――機械が人間を超えるとき

シンギュラリティ(技術的特異点)という言葉が近年注目を集めている。

人間が人間の知能をわずかでも上回った人工知能を作ることができたならば、その人工知能も同じように自らを上回る人工知能を作り、その人工知能もまた自らを上回る人工知能を……というサイクルが生まれ、そうして作りだされた人工知能は人類にとって多大な恩恵をもたらす可能性を期待される一方、その「人知をはるかに超えた」人工知能の知見から、人類が到底予見し得ない危険が降りかかる可能性も指摘されている。

まるで『ターミネーター』のような話だが、つい最近までSFの中の出来事だった問題が少しずつ現実味を帯びてきているのはたしかである。

 

このようなシンギュラリティの発生自体はもう少し先のことになりそうだが、機械と人間の知能競争は古くから人々の関心を集めてきた。中でも最も身近な例となるとボードゲームにおける人間とソフトウェアの戦いが上げられるだろう。

こうしたソフトウェアの進化は正確に言うとシンギュラリティの問題とは少し異なるようだが、ひとつの側面として語ることができる。

ボードゲーム、特に理論上先読みが可能であるとされる「二人零和有限確定完全情報ゲーム」に分類されるチェスや将棋、囲碁やオセロといったボードゲームにおいてその研究の歴史は古く、その歴史は人工知能の歴史と共にあると言っても過言ではない。

 

近年は特にコンピュータ将棋の大躍進が記憶に新しいだろう。プロ棋士スマホ活用疑惑事件や、「電王戦」におけるプロ棋士とソフトウェアの対決は大きな話題となった。

将棋のコンピュータソフトウェアは近年すでにトッププロと同等かそれ以上の実力を持っているとされ、人間と競技する役割はついに終わったとされている。

 

他のボードゲームを見てみても、チェスや囲碁もすでにトッププロ以上の実力を有していると言われている上、オセロは6×6の盤面において完全解が出ており、チェス盤を利用してプレイするチェッカーというゲームではすでに「双方が最善を尽くした場合必ず引き分けになる」という完全解が出てしまっていて、言ってしまえば「ゲーム自体がコンピュータによって終わりをつげた」ゲームとなってしまっている。

このように二人零和有限確定完全情報ゲームにおいてみれば、理論上は「先手必勝」「引き分け」「後手必勝」の解析が可能であるとされ、近い将来ゲームが解析されてしまった場合は将棋のトッププロ羽生氏が言うように「駒の動きを変える」などのルール変更によって対応がなされるかもしれない。 

 

果たしてボードゲームプレイヤーにとって、人生をかけて取り組んできたゲームが文字通り終わりをつげるという事実は、幸せなことなのだろうか。それとも不幸なことなのだろうか。

私のように「ゲームと言えばビデオゲーム」と、小さいころからコンピュータ相手にゲームをプレイしてきた人間からすれば、コンピュータはそもそも「手頃な難易度を与えてくれる存在」であり、努力すれば最後には勝たせてくれる、という印象があるものだ。

ビデオゲームにおいて見れば、人間ははじめからコンピュータに負けているのである。だからこそビデオゲームの対人戦は面白い。

しかしボードゲームは違う。メジャーボードゲームのほとんどはコンピュータの歴史以前からある対人を目的とした古典的ゲームだ。効率化された定石を何百年とかけて見出だし、あるときは活用し、あるときは捨て、まさに日進月歩で人間に培われてきた血の技術こそがボードゲームの歴史なのだ。コンピュータは現代においてあっという間にそれを鯨飲馬食し、圧倒的に振る舞う。

それは残酷なことのようにも見える。しかしある意味ではとてつもなく素晴らしいことでもあるはずだ。トッププレイヤーの誰もが立って見たかった境地がそこにはある。

 

ボードゲーム界では今まさに、機械が人間を超えようとしている。そこには数々の人間の複雑な想いがあるはずだ。しかしそれは、人類にとってひとつの歴史的瞬間であることは間違いないのである。

 

私は勝てる。ソフトのプログラマーは人間だが、私のプログラマーは神なのだから。

チェッカー世界チャンピオン マリオン・ティンズリー