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空室四号

感謝と贖罪

死を眼前に感じて生きるということ

私の2017年の目標は、もっと死を眼前に感じて生きるということです。

 

こんなことを言うと、自暴自棄になったかのように聞こえるかもしれません。しかし私が言いたいのは、自暴自棄とは少し違うニュアンスのことなのです。

 

今生きている人は皆、一万年後には確実に死んでいます。

しかしあなたが今健康であるならば、一歩一歩、一日一日と生は続いていく予感がするでしょう。そして実際に、続いていくのでしょう。

 

これは当たり前のことです。当たり前のことですが、そこに何かしらの意味を持たせるのはなかなか難しいことだと思います。

一万年後には死んでいるのに、明日は生きている予感がする。明日の積み重ねは一万年後なのにも関わらず。

つまりは、明確な終わりの線引きがないまま生きていかなくてはならないから難しいのです。我々が生きていくなかで、生の有限を感じる瞬間というのは思いの外少ないものなのかもしれません。

 

私はたまに、もし死後の世界があるのだとしたら、そこに持っていけるものはなんだろうと考えることがあります。

宗教的な祈りであるとか、哲学的な探求であるとか、それともやはり個人的な愛だとか絆だとか心の繋がりであるとか。ひょっとしたらお金かもしれない、とか。

でも、おそらくは何も持っていけないのでしょう。

 

それなら結局はどうでもいいような気もします。自暴自棄的な考えに結び付いてしまいます。一万年後どころか、百年後にはきっと生きていないのだから、どうでもいいのです。計り知れない虚しさを感じます。

 

しかし現実には自暴自棄的に生きるのも難しいものがあります。なぜならやはり、明日も明後日も、続いていく予感がするからです。

生活費を稼がねばなりません。自分や家族の目の前の不安を取り除かなければなりません。そしてそうやって必死に足掻いているうちに、きっとある日不意に生と死の境目を越えてしまうものなのです。

 

人間というのは、自己の死を前提に、何かを現世に遺すために生きているのかもしれないと私は強く思うことがあります。

それは子孫や大それたものや有用なものだけではなく、自己中心的な生きた証のようなものも含まれます。私がブログを書く理由でもあります。

 

いつ死ぬかなんて考えてもしょうがないという人もいるでしょうが、自分がいかに死ぬかということは、いかに生きるのかということでもあると思います。例えば明日死ぬとして、これでよかった、と言えるのか、ということです。

 

漠然と生の予感の中を生きるのではなく、昨日まで、そしておそらく明日も死ななかった者として、自分の人生の釈明をするために生きるというのが2017年の私の目標なのです。

そしてその釈明こそが、死後には持ってはいけないけれど、何かしら現世に遺せるものであり続けるのだと思います。