空室四号

ゲームコラム中心雑記ブログ

ゲーム・コミュニティ・コンプレックス

889フレぐらいの遅らせ大ゴス

先日少しショッキングな出来事があった。その出来事に遭遇した直後はそんなに衝撃はなかったのだけれど、あとからボディーブローのようにじわじわと効いてきた。

そう、格ゲーが大好きな友人が「もう格ゲーをやるのは、いいかな……」とポツリと口にしたのである。

よくよく話を聞いていくと、彼はもうプレイヤーとして格ゲーを触ることは断念するが、完全に格ゲーを離れるわけではなく、プロプレイヤーや有名ストリーマーたちの活躍を動画でチェックをすることによって格ゲーとの付き合いを続けていくということらしい。いわゆる格ゲー界隈でいうところの「動画勢」になるということである。

僕はそれを受けて「まあ時間もないし、人それぞれあるからな……」ぐらいの感想を述べたような気がする。

だがしかし、やっぱりあとから考えてみると少しショックだった。今日は少し、この場を借りてこの出来事を消化していきたい。

 

人生のエンドコンテンツ

我々が人生を歩む上で、どうしても極めきれない、いわゆる一つの「エンドコンテンツ」をあげるとするならば、やはり「人間と関わり合うこと」というものが真っ先にあげられると思う。

あらゆる趣味に手を出し、あらゆることに飽きたとしても、どうしても人と関わり合うことは我々の心を揺さぶって止むことはない。やめることが許されない苦痛や憤り。また、やめる気などおきないほど楽しく愛おしい気持ち。

僕らはゲームの世代でいうならば「コンシューマー一強世代」だ。もちろん世代に関わらずあらゆるゲームに触れ、あらゆるゲームの楽しみ方はそれぞれにあったはずだが、僕らの世代におけるゲームの青春時代の過ごし方といえば、家でコツコツひとりでゲームを(特にRPGを)プレイすることこそがゲームの楽しみ方の王道であった。

僕らは名作をたくさんプレイし、個人の体験としてそれらを消化してきた。そんなかけがえのないゲームの体験たちは、素晴らしい文学や映画のように、僕らそれぞれの心のなかで宝物のようにきらきらと輝いているはずだ(そうだろう?)。

その代わり、僕らの世代は奇妙に「ゲーム・コミュニティ」というようなものから絶望的に切り離されているのである。

上の世代を見れば、ゲーセンで不機嫌な顔と顔を突き合わせ、好敵手と共にコンボの猶予フレームの答え合わせや、また誰よりも高いスコアを叩き出すための、とてつもない濃いコミュニケーションをしてきた連中。

下の世代を見れば、アバターとハンドルネームとテキストと声でもって偶像へと難なく憑依し、そうして世界中から集まった同じく膨大な数の偶像たちと、ネットの海の中で寄せては返し、くっついてはまたすれ違い(まさに夢見てきたSF世界のゲームだ)、よりゲーム世界に没入したコミュニケーションをしてきた連中。

……そんな世代に挟まれて、僕らの世代のゲームは、言ってしまえばただの素晴らしい芸術で、ただの儚い夢物語だったのだ。

これは何度もこのブログでしてきた話である。もはやゲームの何を語ろうとも、このテーマへとどうしようもなく行き着く。

 

やっぱりおれはおまえらとゲームの話がしたい

格ゲーをやめた彼は、正しい判断をしたと思う。僕らの世代は逆説的に、積極的に人里へと還るべき運命を背負った世代なのだと思う。

時間や生活と折り合いをつけてゲームをやめるならやめるべきだし、あくまで現役としてゲームを続けるならば、何かしらのゲーム・コミュニティに関わるべきだ。

中でもソーシャル・ゲームやオンライン・ゲームで難なく偶像に憑依できるならばそれが最高だ。僕はどうしても馴染めずにいるが、すれ違う偶像たちの片隅でなんとかやっている。

だからこそ、僕は彼が完全にゲームから離れてしまわないで良かったと思っている。

僕らはオンラインや動画配信の中で、もっとその奥にいるゲーム・プレイヤーを見つめるべきだ。

もしそれに疲れたとしても――心配ない。儚い夢物語たちはいつでも僕らを待っている。それはそれで、僕らの青春にしかなかった素晴らしい体験だ。

彼はよく言う。

「ゲームはどこかの地点で、必ず終わってほしいんだ」

そう、夢物語はいつか終わりがくる。勇者は旅立ち、魔王は倒され、姫は救われる。おしまい。本は閉じられ、幕は閉めきられ、スクリーンには闇が落ちる。

そして僕らは一時的に勇者から人に還る。還るからこそ、その素晴らしい体験を持ち出し、人里で冒険の感想戦をしようではないか。

……少なくとも、僕らの世代がゲームを通してしてきた唯一の人間との関わり合い方は、それだった。それしかなかった。ならば僕は――偶像に完全に憑依できず、配信にも熱中できない僕は――ゲームをプレイする限りはいつまでもそれを続けようではないか。

 

追伸

久しぶりに戻ってきました。またここまで読んでくれたあなた、ありがとう。

色々思惑があってコメント欄を設けていましたが、色々思惑があって近々停止する予定です。それでは、また機会がありましたら。

【個人的なお知らせ】いつか世界を経由してあなたの胸を打つ

ただありがとうと言いたい

1年前にブログを始めたときのことを思い出していた。

1年前に語ったとおり、僕は若いころにとある趣味のコミュニティにいて――はっきり言ってしまうとバンドなわけだが――僕はそこで出会った人たちのことを思い出してブログを書きはじめたわけだ。

バンド活動はもちろん楽しいことだけではなかったし、むしろつらいことのほうが多かったように思うが、それでも地元で出会うバンドの仲間たちは温かかった。

実際、こうしてブログを書いていくにつれ久しぶりに連絡をとってくれた人もいて、そんな人たちがいたからこそこのブログを続けてこられた部分も大きい。

もちろん、記事の内容からブログを気に入ってくれて、そこから定期的にチェックしてくれるようになった方々にも本当に力をいただいた。

今はただ、あなたにありがとうと言いたい。

 

いつまでも暖かい毛布にくるまっているわけにはいかない

本格的に寒くなってきた。冬は僕が一番好きな季節である。

人は寒いと内省的になる。自分は今何をするべきかと嫌でも考えさせられる。冬はそういった面で春よりも旅立ちに向いている季節ではないかと僕は思っている。

そしてバンドのコミュニティで出会った人たちも、ひとりまたひとりと地元から旅立ち、もっと都心へと活動の拠点を移していった。地元に留まってさえいれば必ず温かい声援がもらえるにも関わらず。

地元のバンドコミュニティでは観客もほとんど顔馴染みになっていて、ライブも盛り上がるし、アンケートを取っても皆本気で応援してくれる。

しかし、決して甘やかされているわけではないけれど、自分の実力の本当のところはよくわからなくなってくるものだ。

結局のところ自分たちは音楽でいったいどれほどの人間の胸を打つことができるのか――

彼らはそういった疑問に駆り立てられるように旅立っていったのだろう。応援してくれる人たちがいるからこそ、その場所に留まるわけにはいかないのである。

そういうわけで、都会に出ていった彼らとはもうほとんど会っていないけれど、きっと彼らはもっと大きな世界を経由した後、しかるべきときに僕の胸を打つだろう。

 

どこかでひっそりと、しかし大々的に

ということで、オンもオフも入り交じったコミュニティでやってきた僕も、完全に覆面をかぶり、潜伏することに決めた。

この広いネットのどこかへと旅立ち――あなたが今は知らないどこかで――またよくわからない文章を書いていく。

もちろんこのサイトは残しておく。言いたい放題やりたい放題やってきたので、またそういう気持ちになったときはたまに戻ってくるかもしれない。

そしていずれ僕ではない誰かが――覆面をかぶった誰かが――しかるべきときにあなたの胸を打つだろう。必ず。

モンハンワールド・ベータ 感想!

アクションゲームとしてはびっくりするほどいつものモンハン

良くも悪くも、わりといつものモンハンである。

マップがシームレスになったり、キャラクターがフルボイスで人語を話したり、マルチプレイの環境が整備されたり、「導蟲」の存在、そしてモンスター同士の激しい戦闘などが『ワールド』の目玉として大々的に発表されていたが、まあ、個人的にはけっこう「いつものモンハン」といった印象である。

その理由としては、上記のようにシステム的には非ナンバリングタイトルらしく従来になかった面白いアプローチがなされているのだが、アクションゲームとしてプレイヤーが担うキャラ操作の本質的な部分は正直既存の作品のマイナーチェンジの域であり、やや物足りない印象だったからだ。

マップがシームレスになったと言っても、『ワールド』はモンスターの発見・未発見によって戦闘パートと探索パートが如実に分かれている仕様であり、モンスターの行動ルーチンを見ても、ある程度戦ったらあからさまにエリアチェンジをしてくる面などは変わらない。

よって従来のように「逃げるモンスターを追って倒す」感覚も変わらない。モンスターのエリアチェンジは多めだが、あまりストレスを感じないのはシームレスのいい点だと思う。

ハンターのアクションは、個人的には『クロス』のスタイルや狩技が馴染まなかっただけに、今回のシンプルなアクションは嬉しい……が、高望みするならばもう少し変化があっても良かったと思う。でもボウガンはとても楽しいです。

 

グラフィックはとてもキレイ、UIは好みが分かれるかも

縄張り争いや捕食行為、モンスターが弱肉強食の世界に生きているという感触。

「モンハンにもっと生態ドキュメンタリー映画のような演出を!」という声は、昔から一部ファンの間で強く望まれていたことであった。

『ワールド』はベータを少しプレイしただけでもこういった声にかなり応えてくれていることが実感できる。そしてそういった演出をグラフィックの鮮やかさがよりいっそう引き立てている。

しかしそのグラフィックも画面の明暗の設定をキチンとしなければ若干の眩しさを感じるかもしれない。

慣れもあるのかもしれないが、とにかくゴチャっとしていて情報量が多い。スタイリッシュになったUIも相まって、細々とした情報が画面いっぱいに広がっているように感じる。この辺りは好みが分かれるところかもしれない。

 

まとめ

心配されていた、いわゆる「コレジャナイ感」についてはプレイしてみるとさほど感じない。

「コレジャナイ感」については『4』で本格的なストーリーが導入されたときもコミュニティ内で議論が起こっていたが、そのあたりをさほど気にしなかった人ならすぐ馴染むと思う。

なぜなら前述のとおり、モンスターやハンターの挙動、操作等はとても馴染みがあるいつもの『モンハン』だからだ。あるいは「いつもと違った雰囲気でも挙動や操作が従来のモンハンの世界に引き戻しにくる」と言ってしまうと少し意地が悪いだろうか。

私のように従来のモンハンから脱却したいい意味での「コレジャナイ感」を求めていた人は少し肩透かしをくらうかもしれない。

私としては購入はもう少し考えてから決めようと思います。

今だからこそまたゲームの話をしよう

おれには来るはずのない風を待っていた。いつまでもいつまでも。

色々考えることがあってサボってしまっていた。人間、初心にかえらなくてはならないときもある。

思い返せばおれは話せば長くなる話をわざわざするためにここでこうして文を書き始めたわけだ。

しかしそもそもおれが長々と語れるようなことは、このうんざりするほど長い人生の中で実は何一つありはしないのかもしれない。

おれの中のすべての物語は終わってしまう以前に始まることはなく、本はただ開かれることなく永遠に閉じられている。高価な額縁に飾られた素朴すぎる絵には哀れにも分厚い埃が積もっており、古ぼけた倉庫の中で来るはずのない観覧者を永久に待ち続けている。終わり。

世の中にはあらゆる分野において凄まじいほどの熱量を持った人間がいて、つまり、おれがだらだらとただ続けてきただけのビデオゲームだってそれは例外ではない。

馬鹿げたことかもしれないが、もしビデオゲームをプレイする姿勢みたいなものにある種の才能や努力があるとして、それがいったい何を意味するのかはわからないが、例えば一種の哲学や、視野や、熱量といった点で、おれはゲーマーとして確実に限界を感じているのだ。

限界とは? 力不足? 何の? 誰と比べて?

……いや、自分でも何を言いたいのかはよくわからない。しかし今ここにある感情として、ただただゲーマーとして「悔しい」し「歯痒い」し「もっとできるはずだ」と思っているのだ。驚くべきことに。

「ゲーマーとして」?

何だろう、それは。

 

一般的にはただ凡庸であることに価値があるとはあまり言わない

ところで、ビデオゲームの分野にも胸を張って語ることができる武勇伝というものが少なからず存在する。

あまりにも狭い世界の武勇伝であると思っていたのだが、今ではビデオゲーム業界自体がビッグバンよろしく急激に拡がり続けており、SNSでは、レトロゲームコレクターであるとか、対戦ゲームで強いチームを率いていたとか、ゲーセンではヒーローだったとか、まあとにかくそういう伝説的な人を目にする機会は多い。

そしてそういった人たちの生き生きとした動向を追うことはなかなか面白く、そしてまた追うからこそゲーマーとして歯痒い。

……そう、歯痒いのである。

では、おれは一流で、伝説的な、素晴らしい武勇伝を持つゲーマーに憧れているのか? いや、それはおそらく厳密に言うと違う。不思議と「あちら側」に行こう、行ってみたい、と思うことはほとんどない。

おれはおそらく、そういった人たちから何かしら不変の、人間的な、それこそ哲学や視野や熱量的なものを、あまりにも強烈に自分に還元したいと思っているだけなのかもしれない。

彼ら、彼女らからそういった「何か」を受け取り、応援し……それは、スポーツの分野であったり、芸術の分野であったり――そういったものに取り組む人たちやその作品に感応することとまったく変わりがないものだ。

そこにいる人間が紡ぐただ熱い情熱が、心を、魂を、これでもかと揺さぶり起こし、焦燥させるほど胸を焦がす。

何だ、これは、とは言ったものの、よく考えたらただ季節外れの熱中症だっただけかもしれない。

「ゲーマーとしての姿勢」は残念ながら凡庸、だがしかし、裏を返せばおれはビデオゲームにまだここまで熱くなれるのか!

ブロガーとしては凡庸どころか落第ですが、これからも熱に浮かされるままできる限りおれの目線で思ったことを書いていきたいです。よろしくね。

CoD:WW2開戦前夜――CoDにおける我々初心者の立場について

最後に生き残った虫だけが力を持つ

蠱毒(こどく)。古代中国における呪術。

多くの虫を同じ容器の中に放り込み、最後の一匹になるまで闘わせる。そしてその最後の虫、たった一匹だけ生き残ったその虫は、民族の中で神霊として祀られるという。

……そう、対戦ゲームにおいての初心者は、この同じ容器に入れられた虫に近い。

大抵の人は何べんやってもまったく勝てなくて、怒ったり、むなしくなったり、最後にはつまらぬ時間の無駄だ、 と辞めてしまう。しかし一部の強者たちは、そんな苦労など知らぬとばかりにすり抜けるように勝ち上っていく。

食うものと食われるもの。この世どころかゲームですらも弱肉強食なのだ。

……ただ虫と違うところは、食われても次あるということ。力があるから残るのか。残るから力がつくのか。できれば後者の可能性もあると信じたい。継続は力なり。そう信じて。

 

誰だって蠱毒……いや孤独な初心者のころがあったはず

僕が『CoD:IW』にて初めてCoDシリーズに触れて一年が経つ。

2016年春、『バトルフィールド4』のワンコインセールにて対戦FPSの門を叩いた僕は、とにかくあらゆるFPSを経験しようと話題になりそうなFPSを片っ端から買ったのだった。

オーバーウォッチ』、『レインボーシックスシージ』、『タイタンフォール2』、『バトルフィールド1』、そして『CoD:IW』だ。

CoDシリーズに触れた感想としては良くも悪くもシンプルな対戦FPSであったということ。

ブーストジャンプや壁走りなど縦の動きはあるものの、とにかく戦闘自体はシンプルに尽きる。一番人気があるモードが伝統のチームデスマッチであったこともその理由のひとつかもしれない。

マップも撃ち合い前提でタイトに練られており、BFで広いマップと大人数の群れの中でぼんやりとキルをあげていた僕はCoDで初めて撃ち合いのシビアさを知ったのだった。

立ち回りはもちろん、エイム力、反射神経、障害物を駆使しキャラクターの身体の一部を隠すだけで勝率が如実に変わってくること(もちろんBFでもそうなのであるがCoDはとにかくこれらがなければなかなか勝てなかった)。何よりも浮き彫りになる少人数チームの一員であるという責任感……

そしてスコアストリーク。デスすることなくスコアをあげ続けることで使用することができる強力な武器。強いものがより強くなっていくこのシステム。何回も相手にスコアとして食われては、自分自身は一度もスコアストリークを使うことなくマッチを終える。何度も心で仲間に「すまん」と謝った。

……初心者のうちは何より孤独である。暴言も受けた。強者は孤高だ。孤独ではない。『はじめの一歩』の鷹村も言っていた。

ということでおそらくこのシリーズ、人口が多いこともあって、ユーザー間でも初心者はそこまで望まれていないし、メーカー側も初心者を取り込む配慮という面ではあまり力を入れていない。ただ敗北だけが己に「生き残ってみせろ」と告げるのみだ。

初心者は心を強く持て!としか言いようがない気がするが……

 

でもウォーモードは命が軽く初心者向きかもしれない

いきなり前述の文章をひっくり返すわけだが、『CoD:WW2』は離れていったファンを取り戻すことを強く意識しているだけあって、より一層初心者置いてけぼりかと思いきや、新しいモードである「ウォーモード」はベータをやった限りではけっこう初心者向けだと思った。

「ウォーモード」は様々な目標を攻撃側・防衛側に別れてこなしていくモード。

制限時間内に目標を達成・阻止することだけが勝敗を分けるので、わりとデス前提で突っ込むことも大事であり、デスによって仲間に直接迷惑をかけることはあまりない。もちろんその間人数が減るのは痛手ではあるが。戦績にてキルレシオが表示されないことも良心的だ。

ただその代わり、『CoD:WW2』のシステム自体はかなり誤魔化しがきかない仕様となっている。

アクションがシンプルになったので個人技として光る部分は純粋に腕だけであり、より一層チームとしての立ち回りが大事になるかもしれない。

とにかく徹頭徹尾お手本のようにシンプルなFPS、それが『CoD:WW2』。初心者は揉まれてみる価値があるのではないだろうか。僕も揉まれます。

 

旅に出よう! カタルーニャ独立騒動に桃鉄とドカポンを想う

社長のみなさーん! 10月ですよ~!!

いや、社長ではない。ただ10月があるだけだ(ストア派哲学)

……先日より世間ではカタルーニャ独立関連のイザコザがあって、僕もネットであれこれと目まぐるしく流れてくる情報をなんとなく眺めていたのだけれど、そのうちにちょっと驚くくらい自分はスペインという国を今までまともに意識したことがなかったということに気づいた。

そんな僕を尻目に、ネットではプロのジャーナリストから知識人、そして一般の人まで、多くの人々がスペインとカタルーニャに関するあらゆる情報を出し合い、議論や想いに更けっていた。

その情報の中で僕が目をひかれたのはカタルーニャの街並みを写した写真だった。写真に写った街並みはどれもとても美しく、鮮やかな色と活気に満ちていた。中でも僕が特に心を打たれたのはガウディ建築だ。

「ガウディなら『ギャラリーフェイク』で読んだことがあるぜ。サグラダ・ファミリアの人だろ?」

……スペインやカタルーニャの膨大な情報に触れた末に、結局そんなことしか出てこない自分を本当に恥ずかしく思った。いつだって僕は何かに紐付けられた情報しか知らず、リアルを知らないのだ。 

僕にとって他にスペインと言ったらなんだろう? 無敵艦隊? サッカー? バル?

……そうだ、バルだ。いやバルログだ。スペインといったらバルログじゃないか。バルログステージの、一面に張り巡らされた網の隙間から見た景色が僕のスペインの全てだ。踊る女性。楽器を奏でるおじさんたち。アップテンポなBGM。ひとえに情熱。そしてフライングバルセロナ……ヒョー!

想いは遠く遥か彼方。しかし体は来る日も来る日もドアにインしてゲーム、ゲーム、ゲーム……

 

正直、ドカポン派だった

もちろん『桃鉄』を知ってはいた。むしろ『ドカポン』よりも知っていた。一般的な知名度もおそらく『ドカポン』より『桃鉄』のほうが高いはずだ。

桃鉄』が家にいながらにして旅を楽しめるボードゲームだとしたら、『ドカポン』は『桃鉄』にRPG要素を足して旅要素を引いたようなゲームで、道中モンスターを倒しながらレベルを上げ、町を支配する「ビッグモンスター」を倒していく流れとなる。

しかし「ビッグモンスター」を倒すこと自体が最終的な目的ではなく、最終的な目的は「ゲーム終了の時点で他の勇者よりも1Gでも多く資産を持っていること」。「ビッグモンスター」を倒して代わりに自分が町を統治し、各地の町から税金を集めていくことは、他の勇者を最終的に出し抜くためのひとつの方法でしかないのだ。

しかし『桃鉄』が日本地理や文化や名産品をワイワイ楽しみながら学べる知的なゲームだとしたら、『ドカポン』はそれに比べあまりにも失うものの方が多かったように思う。

桃鉄』ではボンビーを介して行われる他プレイヤーへの攻撃が、『ドカポン』では戦闘という直接的なプレイヤーの意思と力でもって行われる。これが今でも『ドカポン』が「友情破壊ゲーム」と伝説的に語り継がれる由縁だ。小さいころ、そんなものに僕らはのめり込んだのだ。

桃鉄とかぬるいっしょ。やるならドカポンでしょ」

……『ドカポン』と出会ってかなりの日数が経っていたけど、僕は友人が言ったこのひとことのせいで「実は桃鉄の方はやったことないんだよね」と、何となく言い出せずにいた。

 

復興、それもまた、痛みを伴うけれど

ようやく『桃鉄』初プレイにありついたころには、『ドカポン』と出会ってからもう5年ほど経っていた。小学生だった僕は中学生になった。

そして念願の初プレイの『桃鉄』は、ぬるいなんてもんじゃなく、激アツだった。アツすぎてヤバかった。ヤバい。ホントヤバい。『桃鉄』ヤバすぎる。『ドカポン』が友情破壊ゲームならこちらは語彙破壊ゲームである。

……何がヤバかったって、それはもうとにかく鹿児島である。

目的地が鹿児島になり、熾烈な争いの末僕は首尾よく一番乗りでゴールした。上出来だ。そこまでは良かった。ここぞとばかりに一番乗りの賞金を使って物件を買い漁る。まあ、妥当な判断だ。

……が、噴火である。

桜島、噴火。物件、損害。なんとか復興。

桜島、噴火。物件、損害。なんとか復興。

短期間で計7回ほど。

……壊れてるんじゃねーかこのゲーム。何だよこれ。『ドカポン』の友情破壊以上の悪意をプログラムが仕掛けてくるのかよ。なんでこんなに噴火するんだよ。日本で火山がそんなに頻繁に噴火してるわけねーだろ。……って思って後日調べてみたらしてんの。マジで。桜島。噴火。頻繁に。なにそれ。ヤバい。鹿児島ヤバい。火山大国日本ヤバい。いや本当にリアルの鹿児島ではどうやって対策してんだよって首かしげちゃったよ。

……まあ、中学になって本格的に地理を習ってるのに鹿児島の現状すら知らなかったんだから、今スペインを知らなくてもしょうがないじゃん。本当に俺はダメ!あーダメだダメだ!解散!

この1ヶ月ゲームラジオに挑戦してたって話

えー今回はね、えーブログを更新しなかった理由について語っていくわけなんですけども

はい!どうもこんにちは!

今回語っていく話はね、ゲームラジオをやっていきたいって話なんですけど。

それというのもね、実は僕YouTubeにチャンネルを持ってまして、そこでテロップを使ってゲーム動画を出したりしてたんですよね。

そしたらそれを見た古い友人に、「絶対喋ったほうがいい、テロップとかダメ、つまらなくても喋ったほうがいい」というような指摘を受けましてね、どうしたもんかなぁと思ったんですけど、やっぱりたとえ友人でも見てくれている人の指摘っていうのはできるだけ真摯に受けとりたくなるものなんで。

 

だからもうね、それからは練習ですよ、練習。

車の中でひとりで練習するんですよ。「はい!どうもこんにちは!」って。おじさんが。

もう最初のうちはその一言だけでなんか空気に耐えられなくなってくるんですよ。おかしな話でしょ、自分しかいない空間で自分で自分を追い込んでるんですよ。「はい!どうもこんにちは!」って言った瞬間にこの世の終わりみたいな静寂が漂ってくるんですよ。ああ、これはやられるな、身を切ってるな、っていう深淵が。

ゲーム実況者の方々はみんなああいう深淵をのぞいてるのかなぁ、って思うとなんかちょっと感慨深いですよね。

 

で、どうにかしてその最初の「はい!どうもこんにちは!」を乗り切ったんですけど、やっぱりどうしても上手くいかないというか、関なんですよね。関。都市伝説の。関さんみたいな口調になってくるんですよ。

僕の友人に都市伝説の関さんの口調をめちゃくちゃ嫌ってるやつがいて、マジで親でもやられたのかなって思うくらい嫌ってるんですけど、そんなことを思いながら喋ってたらなんかどんどん関になってくる自分がちょっと面白くなってきちゃって、今度はまた全然喋れない。

もうこのあたりで実は「日常会話すらまともに喋れないからブログ書いてたんだわ」ってことに気づいてきたんだけど、もう後戻りはできないというか、深淵の魔力というものにどんどんとりつかれてきちゃって、何だかんだ頑張ってたんですよね、この1ヶ月。

 

で、内容というのが、僕自身ゲームが下手なのもあるんで、どちらかというと実況よりもラジオみたいなのがやりたいんですよね。

僕もゲーム実況みたいなのはたまに見るんですけど、ガッツリと攻略やスーパープレイをやっていく動画よりも、雑談というか、「ゲーム業界って今こんなんだよね」みたいな内容をラジオがわりに聞くのが好きなんで、そういう路線をやっていきたいんですよね。

そんで今直面してる問題が「ブログと題材かぶってるじゃん問題」なんですよね。結局それって今までブログでやってたことなんですよ。マジどーすんだこれ。まあでもやる。百々のつまりやるけどね。俺は。いつか。