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空室四号

感謝と贖罪

【長い】じゃあ『はじめの一歩』はどうすればよかったのか

煽るような記事タイトルで申し訳ない。一歩の熱心なファンの中にはきっとこのタイトルを見て怒っている人もいると思う。

しかし私も小学生のころから一歩を読み、今でも自室に100冊以上の単行本を並べ、未だほとんど一歩の為に毎週週間少年マガジンを買っている熱心な一歩ファンのひとりであると自負している。

そんな私に今日だけはどうか「一歩どう贔屓目に見ても長くね?」問題について語らせてほしい。

なお、ネタバレを含むので最近一歩を読みはじめた将来有望な一歩キッズの方はブラウザバックしてください。

 

さてまず、私が「一歩どう贔屓目に見ても長くね?」問題を語る上でひとつターニングポイントだと思っている試合について触れておきたい。

細かく見ていくと色々言いたいことはあるのだが、とりあえず結論、つまり私が導きだしたターニングポイントとなった試合を言ってしまうと、それは一歩 対 唐沢戦である。

それは何故なのか? 順を追って説明していこう。

 

まず序盤の山場だが、これは確実に一歩 対 千堂の日本タイトルマッチであると考えていいだろう。もはや日本タイトル獲得が序盤と言えてしまうところがヤバイといえばヤバイ。

伊達に敗れ、デンプシーロールを引っ提げて復帰した一歩。そしてついに日本タイトル再挑戦。それを受けて立つのはあのライバル千堂。読者として盛り上がらないわけがない。ファンの中でもベストバウトにあげられることが多い愛すべき一戦である。

そして激闘の末についに日本タイトルを手にする一歩。ここで作品としても一区切りがつく。

 

「ついにやった! 一度負けたけど、俺たちの一歩はやっぱり強かった!」

 

いじめられっ子だった一歩が努力につぐ努力の末ついに日本一強い男に。作品の主題である「強いってなんですか?」を少しだけわかった気になる我々読者。

しかし物語はここで終わらず、ここからは日本チャンピオン防衛編がスタートする。

 

ここからは「日本チャンピオン幕之内一歩」なだけあって、今までとは異なる防衛戦の緊張や、愛する後輩との戦いなど、「守るための強さ」「追われるものとしての立場」ということにスポットが当てられた戦いが続く。

一歩の不器用な戦術も研究されつくされ、そしてついに頼みのフィニッシュブロー、デンプシーロールまでもが沢村に完全攻略されてしまう。

それでもあらゆる犠牲を払った末、命からがら沢村には勝ったものの、ここで我々読者には不安が生じることとなる。

 

「いやまあ試合には勝ってるけど、苦戦が続きすぎ。デンプシーロールも破られちゃったし、日本チャンピオン幕之内一歩が強いのか弱いのかよくわからなくなってきた……」

 

そしてここで件の唐沢戦である。

唐沢戦では上記のような読者に対する明確なアンサーが提示される。そう、デンプシーロールを封印した上での圧勝である。

苦手なはずの技術に優れたアウトボクサーである唐沢に対し試合を完全にコントロールしてのKO、まさに圧巻の完封勝利である。この試合は主人公一歩の目線ではなく相手の目線によって進行し、一歩に黙々と追い詰められていく相手の心境が追体験できるという森川先生の粋な計らいが光る。余談ではあるが、私はこの試合こそ主人公幕之内一歩のベストバウトだと思っている。

 

そしてやはり個人的には、ここで(不安を残しながらも)東洋太平洋なり世界なりに舞台をひとつ上げておくべきだったのではないかと思っている。

 物語の主題である「強いってなんですか?」はおそらく精神的なものだろうし、一歩自身も日夜努力でその答えを見つけようと頑張っているけれど、そのためにはやはりまずここで技術的な舞台を上げて、また「挑戦者幕之内一歩」に戻ってもよかったのではないかと思う。

 

実際はこの後も日本チャンピオンとして一歩は居座り続け、ベテラン・武との試合や、当時現実世界でもタイムリーであったスポーツ八百長問題をめぐるゲドーとの試合、そして天才ウォーリーとの試合などが続くが、このあたりは題材としては面白いのだが如何せん「強いのか弱いのかわからないまままだ日本タイトルで消耗してるの?」的フラストレーションのたまる試合である。前述の通り技術的な舞台が上がっていたならば苦戦するのもわかるのだが……

 

特にウォーリー戦は、辛口な書き方になってしまうが、不自然なほど倒れない一歩に対して数回「触られた」だけで倒れるウォーリーという疑問の残る展開に。

その後の熱烈な一歩ファン・小島に至っては題材としても正直あまりひかれる試合ではなかったし、戦う前のやりとりとしても、2トン車をめぐる言葉と物理理論の致命的な誤りや、今まで一歩の弱点だった立ち回りへの「最強のワンパターン」発言など、このあたりは、まあ、なんというか、いち読者として絶望的なまでに濃い霧の中で狐につままれたような感覚だった。

そしてなによりこの小島に勝ってようやく世界である。マジかよ。

 

現在の、二度目の敗戦から復帰し新型デンプシーロールをひっさげて復活する展開を見ても、主人公に衝撃的な敗戦を味わわせて世界の強さをわからせるなら、それこそゴンザレスとかいうポッと出ではなく宮田の役回りでもよかっただろう。というか宮田も気づいたらくすぶってるな。

 

……いやでもしかし、しかしである。

正直最近の一歩は面白い。変なフォロー抜きで面白い。鷹村 対 バイソンでは「お?これは間違いなくボクシングだ!」という面白さを久しぶりに感じた(バカにしているわけではない、念のため)。

一歩の故障疑惑のイザコザは「え?」とは思ったものの、ストーリーは一歩・会長・鷹村というこの作品の最小単位を中心に(今までと比べて)テンポよく進み、今は本当に「ザ・ボクシング」的面白さがまたよみがえってきているように思う。

とにかく、ああだこうだ偉そうに言ったものの、私は『はじめの一歩』が大好きだ。今後は一層期待している(しつこいが変なフォロー抜きで)。

 

結局のところeスポーツは日本で流行るのか ウメハラの記事の追記として

前に書いたウメハラの記事ウメハラの慶応講演について - 空室四号がそこそこ読んでもらえているようなので、その補足も兼ねて今回の記事を書こうと思います。

内容は記事タイトルの通りです。結局のところeスポーツは日本で流行るのかどうか。 

 

結論から言うと、僕は日本では自然にブームになるようなことはないのではないかと思います。

我々のようなゲーマーにとってeスポーツのようなゲームの向き合い方や、競技性の高いゲームの世界的流行、そして「プロゲーマー」という職業はすでに賛否両論ありつつも馴染みのあるものとなっていますが、これがあくまでゲーマーを越えた一般的なものになるのかどうかはやはり別問題だと思います。

 

その一番の理由はというと、少し理不尽ではありますが、現状日本ではゲームは「社会的強者」がやるものではないからです。

「社会的強者」と曖昧に書きましたが、つまり単純に、ゲームに人生を捧げるまでのめり込んだ人間が、現実的に明日を生きていく糧を手にできるのかというとそうではなく、それどころかあらゆる「現実的なもの」を犠牲にする可能性の方が高いからです。

もちろんウメハラのように一部例外はいますが、やはりまだまだ彼のような存在は「モデルケース」ではなく「成功した一部例外」と言えるでしょう。

そしてそのウメハラも言うように、むしろゲームに人生を捧げるような生き方は人生の破滅を招く危険性が高く、室内に閉じこもりがちで不健康で何も得しない「後ろめたい行為」なイメージもあり、まだまだ子どもたちの夢になるようなものではないです。

 

eスポーツ業界は現在、大きなジレンマの元に回っている業界です。簡単に言うならば、「流行らないから食えないのか、食えないから流行らないのか」というジレンマです。

もちろん食える食えないの問題はサッカーや野球のプロを夢みる子どもたちや、芸術に励む人々にとっても言えることではありますが、それこそそういった分野とeスポーツでは「モデルケース」の例が圧倒的に違うのです。

 

私は冒頭で「自然にブームになることはない」と書きましたが、業界全体もそれを察してか、eスポーツ業界は現在、選手周辺を支える各団体の発達が目覚ましい業界でもあります。

スポンサー、イベンター、育成期間、行政の介入、チームの運営組織、そしてプロゲーマーの定義や認定や目指し方とはいったいどういったものになるのか。

あらゆる問題を孕みながらも日進月歩で変化し、業界はまさに今「プロゲーマーのモデルケース」をつくっている途中なのです。

 

そしてそういった業界の努力を経て、いつかその努力がてこのようにゲーマーの熱意を押し広げたとき、eスポーツははじめて流行を迎えるのだと思います。

それまでは、お世辞にもeスポーツはまだまだきちんとした業界とは言えない、プロゲーマーを目指すにしてもちょっとリスクが高すぎる業界なのではないかな、と思います。

対戦ゲームジェネレーションギャップ!? 対戦谷間世代が見る現オンライン全盛世代

一年くらい前からFPSにハマって以来、色々動画を見て研究していて気づいたことは、今FPSでプロゲーマーなり実力派実況者としてメインをはっている人たちは自分より少し若い世代が多いということ。

 

この世代の凄いところは、若いころからSNSを駆使して過ごしていて、顔も知らない人たちと趣味などのコミュニティを通じてバリバリと友好を深めているところである。

もちろん世代とかではなく個人のコミュニケーション能力の差ということもあるだろうが、このコミュニティ感覚は他の世代が真似しようとしてもできない「同時代的に培ってきた文化のようなもの」が多分にあると感じたので、世代の特徴だと言ってもいいと思う。

 

 とにかく彼らは、ゲームをしたとしても若いころからオンライン環境がすでに非常に身近にあった世代なのである。

だからこそFPSのようなゲームジャンルが大々的に流行ったのだろうし、ネットを通じて攻略、対戦、仲間探しと必然的にコミュニケーションも増えるわけだ。むしろそういった文化に後押しされて出てきたのがプロゲーマーや実況者と言えるのかも知れないが、そのあたりはよくわからない。

 

しかしこれに似たような状況は、私の世代もすでに知っていた。それは格ゲーを筆頭としたゲームセンター文化である。

ちなみに格ゲーで第一線をはっている方々は私より少し上の世代である。ゲーセン格ゲー対戦ブームの全盛期を過ごした世代の人たちだ。

そして彼らゲーセン世代も最近はネットに活躍の場を移しつつあるけれど、ゲーセンが「顔を付き合わせて」対戦する場所だったせいもあり、基本的にネットでも顔出しで配信する人が多いのはFPS世代とは違った特徴であり面白い。

どうせゲーセンに行って対戦すれば顔は知れるのだから、ネットでも顔を出して対戦者やファンと深くコミュニケーションをしていくという感覚なのかもしれない。私にとってもこういった感覚ならば純粋に現実のコミュニティを拡張したものとして理解ができる。

 

しかしやはり、FPS世代の「お互い顔は隠すけど垣根は簡単に越えて深くコミュニケーションしていく」ようなことはなかなか感覚として理解が難しい。いや、素晴らしいことではあるけれど。こちらは完全に現実を切り離して割りきった上での感覚なのだろうか。とにかく、若い世代が文化として培った新しい感覚なのだろう。

 

私の過ごした青春時代は、すでに格ゲーブームは終わりに近づき、コンシューマの性能こそぐんぐんと上がって注目を集めつつあったもののゲーム業界自体は「次の一手」を探してさ迷っていた時代であった。

ネット機能搭載を先取りしすぎたドリームキャストの失敗を経てやっとオンラインが主流になったころには学生生活も終わりが見えていた。

 

ある意味では、ゲームとしては「全部あった」世代ではあるが、ゲームが人とのコミュニケーションに深く結び付いていた上の世代と下の世代が少しうらやましい。

「大作」モンハンダブルクロス

今月って何か大作ゲームの発売予定ってあったかなぁ、なんてぼんやり考えてたらモンハンダブルクロスがあった。しかも今週末。3月に入ったときもぼんやりと大作について考えてたんだけどその時も忘れてたんだよなぁ。

 

しかし、こう言ってはなんだけど、モンハンを含めコンシューマのソフトが掲げる「大作」の看板もだいぶ目に見えてガタつきはじめたというか……まあ、世の中はゲーム機離れである。

少し前の認識からすると、とりあえずみんな買うのが「大作」だったはずだ。当然、前提としてみんなゲーム機を持っていた。今考えるとすげぇ時代である。

だからモンハンシリーズが最大のブームを迎えていたと言えるp2gからp3の時期、あの頃の膨大なライトゲーム人口は一体どこに行ってしまったんだ? という疑問の答えはわりと簡単で、おそらくは「みんな持ってる」スマホのパズドラに行き、モンストを経て多分今頃はシャドバあたりをやってるんだと思う。

なのでおそらくゲーム機離れが進んでいるとはいえ、純粋なゲーム人口は減らずにむしろ増えているのだ。

 

しかし私としては本当はもっと昔みたいにコンシューマが盛り上がって欲しい。今週末みんなで合宿だぞーとか言いながら夜中まで顔つき合わせてモンハンしたい。しかし如何せん、今の時代コンシューマは中途半端なのである。

主に洋ゲーやインディゲーをプレイする層はPCでいい。シュミレーター系のゲームも手厚いしフリーのブラウザゲーもできる。飽きたらネットや仕事もできるおまけつきだ。

そしてちょっと暇を潰すだけならスマホでいいのである。むしろみんなスマホがいいからこうなっているのだ。

前にもどこかの記事で書いたが、ゲームするためだけの機械に何万、オンラインサービスやソフトに数千円とコンシューマはお金がかかりすぎるのである。それに比べスマホは飽きたらネットや通話もできるおまけつきだ。勝てるわけがない。ゲームはゲーム機で、という時代じゃない。多分このまま縮小していくのかな。

とりあえず私にできることは、モンハンダブルクロスを見守ることだけだと思います(買うとは言っていない)。

レインボーシックスシージのFFに心を自由にする幸せを学ぶ

レインボーシックスシージというゲームがある。

 

日本人には馴染みのないFPSというジャンルであり、さらに「特殊部隊によるテロリスト鎮圧」という、わりとニッチな題材を取り扱っているにもかかわらず、そのシンプルながら奥深いシステムでじわじわと人気を集め、発売から1年以上たった今でも異例の売れ行きを記録しているゲームである。

しかしこのゲーム、売れているだけあって確かに面白いのだが、チーム同士による対戦ゲームにありがちな「ギスギス感」への配慮を(おそらく意図的に)ほとんどしていないのである。

 

詳しい説明は避けて大まかに説明すると、味方に下手な人がいたら、チームから除外するためのアンケートをとることができたり、酷いときにはFF(フレンドリーファイア、同士討ち)のダメージが成立するゲームなため故意に味方を倒してしまえたりする。

上手い人たちの感覚だと、下手な人が間違った行動をとっていることを「わからせる」ためにこういうことをするわけだが、エンジョイでやっている方はたまらない。こういうシステムならばそのあたりの住み分けくらいはきちんとするべきであったと思うが、現状カジュアルマッチもかなりのギスギス感である。

同じチーム対戦FPSオーバーウォッチはどちらかというと初心者に寄り添った対戦システムだったが、シージは逆、どちらかというとコアファン寄りの対戦システムで、エンジョイ勢はそもそも対戦システムに愛されていない。

もう少し穏和にできると思ってた身からすると少しショックだった。もちろん、たかがゲームといえどもやるからにはきちんと研究し、勝敗にはこだわるべきだという意見も理解できる。しかしだからこそ、段階的にチャレンジしていけるような、住み分けの徹底なのだ。このあたりのバランスはチームによる対戦・協力ゲームの永遠の課題なのかもしれない。

 

私も何度か故意のFFを受けて、一度はやる気がドン底まで落ちてしまったが、最近はまたはじめようかと思っている。

やっぱり対戦が楽しいので、カジュアルマッチで練習できれば一番なのだが、ソロのモードでガッツリ練習するしかないのかもしれない。

まあでも、また嫌な思いをしたら今度こそすっぱりやめちゃうかもしれない。

 

そんなことを思いながらゲームと向き合っていると、ふと、楽しいことや好きなことほどよくブレる自分に気づいた。

コンプレックスや嫌悪感は一途だ。良くも悪くも少しの隙もなく、ブレることがない。自分のことなのに、自分にはとりつく島もない。そんな問題すらある。

逆に、自分が自由に付いたり離れたりできるものだからこそ、楽しかったり好きになったりするのかもしれないな、と思った。ブレは幸せ故のブレなのだ。

 

あ、それだけです。すいません。

 

今さらながらガンホーの基本無料CSゲーム『LET IT DIE』を少しプレイした

あのパズドラのガンホーがコンシューマー向けに基本無料ゲームを作った。

 

コンシューマー向けの基本無料ゲーム、というものは前から少なからずあったけど、私はその言葉が醸し出す何とも言えない違和感に気づきながら今まであまり気にしないできた。

でもPSstoreのランキング1位だったし、ハクスラを売りにしてるし、あのガンホーがコンシューマーに参戦てところにゲーマーとして変に野次馬根性が出ちゃったし、なんといっても(基本無料だけど国内はZ指定の理由で)108円だし、まあとりあえずやってみるか、ぐらいの気持ちで『LET IT DIE』をやってみた。

 

上で私が違和感と言ったのは、コンシューマー勢は「基本無料」にはあまり惹かれる人間たちではないから、という意味である。

つまり、ゲームに興味がない人でもとりあえずやってもらうための「基本無料」ならわかるが、コンシューマー勢はもうすでにゲームをやるためだけの機械に高いお金を払ってる連中なのである。

まずハードに何万も払い、さらにはオンライン環境のために年間何千円、加えてソフトに何千円、DLCに何千円……と「面白いゲームができるならばある程度高かろうが買う。ゲームは値段じゃない」と思ってる連中なのであり、さらにいえばむしろ「基本無料」という言葉にアレルギーを起こす人も多いコミュニティですらある。

 

例によって私は最新のゲーム業界のことも詳しくないし調べていたりもしないのだが、これはひょっとしたらガンホー側が「コンシューマー勢を基本無料側に呼び込みたい」と思っているのもあるのかもしれない。事実、基本無料ゲームがあまり注目されることがない海外でも大きな注目を浴びたらしい。

「無料でもこんなに面白いゲームがあるよ。こちらの世界もどうですか。普段使ってるスマホでも遊べるものも作ってるんですよ」ということである。

その点に関しては期待を裏切らない出来だ。これで無料は本当にすごい。当然ながらちゃんと「ゲーム」してる。

世界観もシュールでややブラックなサブカル系で、コメディ調のキャラやメタい感じの演出、スチームパンクな東京のステージややりこみ要素など妥協なし。むしろ世界観やキャラは基本無料ゲームでは末永くプレイしてもらうために気合いの入れどころなのかもしれないけど。

 

そんな業界に新しい風を吹かせそうな『LET IT DIE』ではあるのだが、個人的には「ディアブロでいいかなぁ」と思っちゃったのも事実であり、多分それだけで触らなくなる理由になっちゃいそうでもある。 

ハクスラ要素に期待してたのだけど正直その点に関しては絶妙な「コレジャナイ感」である。多分、もうひとつの売りであるローグライク要素と食いあってるような気がする。

それとやはり「無料じゃない」部分との兼ね合いによるモヤモヤ感。単純に基本無料ゲームをやりなれてないと「楽しいけどどこでお金を取られるんだろう」という感情があったりするわけだが、これはやはり「お金を払ってもいいものをやりたい」と思っている人ほど大きくなると思う。

 

でもこの「基本無料」「課金制」に関しては多分このゲームだけのことでもなければゲーム業界だけの話ではなく、今すごくタイムリーな問題なのかもしれない。

利益が商品そのものの売上とは別の場所で成り立つビジネスモデルというのは、従来の「安かろう悪かろう」というような、商品の値段が優れたものの象徴であるかのような考えを否定するモデルなのだ。

現状ゲーム業界はスマホゲームでその先端をきって莫大な利益を上げたが、ユーザーにはまだ混乱があるように見える。

その点で言っても、この作品もまたひとつのモデルの先端に立っていることは間違いないのだ。

ハイスコアガール7巻の感想に私事を添えて

ネタバレ注意!

 

と、喚起するまでもなく、今回の巻は特に大きなストーリー上の動きはありません。

 

かわりに、主人公ハルオと我々読者の距離が今だかつてないほど遠く描かれており、ハルオの重要な心理描写もほとんどなければ、行動としてもただ周りの都合に合わせてあっちへフラフラこっちへフラフラ。

いつも以上に煮え切らない鈍感力を発揮するハルオへの、「おまえ一体何考えてるんだよ」というヒロイン達の感情が追体験できる一冊となっております(煮え切らない、というのはある意味では結果を意味しているといえばそのとおりなのだけど)。

 

しかし、この作品がひとつの着地点へ向かうことへの暗示というか、ストーリー上の一種のタメというか、そういった意味ではかなり重要な巻なのではないかと思います。

着地点、というのは多分ハルオがたまに口にする「大野とゲームしてぇなぁ」という言葉の意味が、果たしてただの言葉通りの意味なのか、それとも違う感情を交えての意味なのか、というところなのでしょうが、それに関して珍しくハルオが「読者にも語らず」本気で悩んでる(風な)のが今回の巻ということなのではないでしょうか。

感想おわり。

 

さて、ここからはどうでもいい私事であって、ある意味本編なのだけれど、前回のウメハラの記事と、今回の感想を書くにあたって、ふと中学の頃のある出来事を思い出したので長々と語らせていただきたい。

 

その出来事というのは、私が小学生時代に友達と熱中していたゲームであるパワプロを極めすぎて、ついに中学に入ってからサクセスモードでオールA選手を量産するに至ったときの話である。

 

私は喜びのあまり量産したオールA選手のめちゃくちゃ長いパスワードを書き写して、一緒に切磋琢磨したパワプロ友達に自慢しに行ったのだった。

しかし友達から返ってきたのは気のない返事。

そう、彼はもうパワプロなんかに熱中せずに部活の練習に熱中し、部活仲間たちと練習帰りにちょっと悪いことをすることに情熱を燃やしていたのである。

 

中学生というのは誰しもが無意識のうちに自立を試みる時期で、漠然と大人になりたいと願う時期だけれど、年齢的にはまだまだこどもであるだけに、「背伸びの仕方」みたいなところで様々な変化が生じる年頃なのだと思う。

また、そういった変化の中で自分がなにかしら成長や熱を感じるようなものに惹き付けられ、たとえば恋愛や友情、たとえばスポーツや芸術、たとえば勉強や行事などから、少しずつアイデンティティを確立して大人になっていくものなのだ。

 

そしてその友達は多分、部活仲間とのつながりや、ちょっと教師や大人にナメた態度をとることで(いわゆる不良)、心の成長を感じていたのかもしれない。もうパワプロなどやっている暇はなかったのだ。

そのときは少しだけショックだったけど、そんな自分もすぐ音楽に傾倒して、熱に浮かされるまま背伸びをした。

そのようにして中学ではほどほどに、高校では丸々音楽に明け暮れたわけだけど、結局頭ぐちゃぐちゃになっちゃってやめて、気づいたら受験の時期になってて、また頭ぐちゃぐちゃになって……

今思い出しても青春時代の音楽の体験は、どっか遠い国の都市部にでも迷いこんでいたんじゃないかと思えるぐらい場違いな体験だったと思っている。

 

そしてすべてが終わって、二十歳手前、背伸びすら上手くできぬまま身体が先に成長してしまったことに気づいたとき、心の底から思ったことは

「ああ、ゲームしてぇなぁ」

ということだけだった。

すぐさまハードを引っ張り出してはじめたゲームから感じた危険なまでの安心感と、ひんやりとした興奮は今でも忘れない。

 そのあとライト層も巻き込んでモンハンの大ブームがきて、ある程度リアルのつながりを意識しながらゲームできたのはよかった。モンハンと友達がいなかったらゲームの世界から出てこられなかったかもしれない。

 

まあ、何が言いたいかというと、個人的にはハルオが「いや、俺はマジでゲームやりたいだけなんだが……」とか言い出してもいいんじゃあないかと思う。いやダメだけど、俺だけは心の底から共感する。

本来はぐちゃぐちゃになったときほど背伸びをするべきなのだろうけど、なかなかそうもいかないときもある。

そうして足掻いた末ついぞあらゆるものが手に入らなかったと気づいてしまったときに、またゲームに向き合って、心のままに熱中していたあの頃の俺からはじめよう、と思えることは限りない救いなのだ。

 

くにへ かえるんだな

おまえにも かぞくがいるだろう……

CAPCOM STREET FIGHTERⅡ ガイル少佐