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空室四号

感謝と贖罪

注目のPSVR!体験型ゲームと専用コントローラー・インターフェースの魅力

体験型ゲームの革命と言われ、「VR元年」という言葉が各所で報じられるきっかけとなった『PSVR』。

発売してしばらくたった今その評判の方を見てみると、良くも悪くも未だ「注目のVR」という立ち位置からまだまだ一歩踏み出す様子がないようにみえる。爆発的なブームは起こらなかったまでも、ゲームファンや業界からの期待はそのままにまだまだその潜在能力を検討されている状態だと言えるのではないだろうか。

事実私もVRに期待はしているものの購入は見送っているのが現状で、品薄状態が続いているところも含め正直まだ手を出すつもりはない。

 

ソフトとしては『バイオハザード7』がゲームボリュームは少ないながらも好調だったようで、その後もポツリポツリと断続的に対応ソフトが発売している印象。

昨今のゲーム業界はVRと相性がいいアクション・アドベンチャーゲームが主流なこともあり、その需要と可能性はこれからますます高まっていくと思われる。

 

体験型ゲームというと近年はリモコンやヌンチャクを模した直感的なコントローラーで遊ぶ『Wii』の成功があり、スポーツを題材にした『Wiiスポーツ』や、踏み台型のインターフェースを使って手軽に運動できる『Wiiフィット』は爆発的に売れた。

任天堂は『ニンテンドーDS』のタッチパネルも好評で、漢字や計算問題を実際に書いて回答できる『脳トレ』も大人を巻き込んで大ブームとなった。

 

Wii以前の体験型ゲームとなるとアーケードゲームおよび同コンシューマ移植作で専用コントローラーと共に遊ぶものがほとんどだった。そのどれもが特殊な操作感で今でも印象深い。

中でも音ゲーは『beatmania』のDJコントローラーを筆頭に『ギターフリークス』のギターコントローラー、『ドラムマニア』のドラムコントローラー、『太鼓の達人』の太鼓コントローラー、『ダンスダンスレボリューション』の敷きマットコントローラーなどユニークで用途もわかりやすい魅力溢れるものばかりだった。

音ゲーはそのリアルな操作感からゲーセンの熱狂を取り戻した立役者でもあり、今でもゲーセンに通いスコアを競う根強いファンがたくさんいるゲームジャンルだ。

アーケードゲームをコンシューマでも楽しめるように開発された専用コントローラーたちはまさにそのリアルな操作感の肝となるマストアイテムであり、家でも音ゲーをプレイしたいコアユーザーや、流行ってるからプレイしたいけどゲーセンに行ってプレイするには実力も度胸もないというライトユーザーにも幅広く受け入れられた。

 

このようにこれまで専用コントローラーによる「操作感」によって体験を演出してきた体験型ゲームはたくさんあったが、PSVRはコントローラーというよりはインターフェースであり、その体験は「没入感」という言葉で表される。

高い画質や美しい音響技術に支えられた、ゲームの世界に入り込んでいるかのような体験はまさに革命なのである。

 

今後はVRとガンコンのようなコントローラーやWiiフィットで使うような踏み台型インターフェースのようなものと組み合わせて、ゲームの中を実際に歩き回るような体験型ゲームが続々と出てくるかもしれない。

もちろん手軽にできるお馴染みのゲームたちも無くなることはないだろう。

 

こと多様性という面において、ゲーム業界はかなり数多くの種類のエンターテイメントをユーザーに提案することができる有数の業界であると私は思う。

その中で生まれた専用コントローラーやVRという興奮や可能性を形にしてきたゲームの歴史に、これからも期待したい。

街の雑多な中古ゲーム屋さんの胡散臭さとワクワク感は異常

何かしらの物品を買い求めるとき、あなたはどういった行動に出るだろうか。ネット通販を利用するだろうか。それとも専門店を訪れるだろうか。

 

中古ゲーム市場においてみれば、今は圧倒的にネット通販やオークションが強い。全国から欲しいゲームを探すことができる上、最安値までも簡単に探しだすことができるからだ。

しかしそれでも、ゲームファンならわざわざ店には出向かないまでも出先にふらりとゲームショップに立ち寄り、店の棚にところ狭しと並ぶゲームたちをウインドウショッピングすることを楽しむ方も多いのではないだろうか。

 

少しくたびれたチェーン店や個人経営のお店ならではのお手製のプライスカードや、中古ゲームの中でも特に安いカードリッジ剥き出しのワゴンセールの山の中からレトロゲームの掘り出し物を見つけたり、並べられたパッケージの状態を眺めて持ち主の愛と歴史を感じたり……

悪く言えばちょっと胡散臭いけれど、それでも心のどこかで確実に「少年時代」とか「青春」みたいなものに結び付いているのを感じてワクワクする。

 

……先日、久しぶりに通りかかった私の地元の中古ゲーム屋さんがテナントから撤退していた。まだ撤退作業中なのか、店の前にはゲームのポスターがたくさん貼られていた。『CoD:WWⅡ』のポスターが大々的に貼られていたので、きっと本当に最近まで経営されていたはずだ。言い知れぬ寂しさを感じた。

 

まだ私が10代にもならないうちから通っていたお店だ。

今となっては信じられない値段で売られていた新品のスーパーファミコンのソフト。とてもじゃないが手がでなかった。それでもおこづかいを貯めて、ようやく届いたお金で中古のソフトを買った。

説明書がないソフトにはお手製のコピーされた説明書を付けてくれた(法的にいいのかは知らない)。『武蔵伝』を買ったときに金券くじをやっていて1等5000円を引いた喜びは今でも思い出せる。新しいゲームを買うと家族に嫌な顔をされるので「基本的に入荷の電話はなし。1週間の間に連絡がなければこちらで処分してしまいます」がルールのこのお店でこっそり予約して『ドラクエ7』を買った。

すべてが今となってはかけがえのない思い出だ。

 

私もゲームはダウンロード購入専門になって久しいが、小売店、特に中古市場は厳しい戦いが続いていたのだな、としみじみ思った出来事だった。

魅惑の「ニンテンドウパワー」!今となっては驚きのローソンのゲームサービス

ゲームのダウンロード購入が当たり前となった今、ダウンロードゲーム市場では最新ソフトの販売サービスだけではなく任天堂ハードによる「バーチャルコンソール」やSONYハードによる「ゲームアーカイブス」といったようなレトロゲームを安価でダウンロード購入し最新ハードで遊ぶことができるサービスも平行して行われている。

しかしダウンロード時代到来以前、任天堂は今となっては驚くべき手法でレトロゲームダウンロード販売を行っていたことがあるのだ。その名も「ニンテンドウパワー」である。ちなみに現在においては「ニンテンドー」と表記されることが多いが、これは「ニンテンドウ」である。

 

肝心のサービス内容はと言うと、つまるところファミコンの「ディスクシステム」のスーパーファミコン版のようなものなのだが、「ディスクシステム」がソフトの書き換えだけではなくセーブ機能や音源やネットワーク機能(なんとパソコン通信に先駆ける形で任天堂ファミコンにネットワーク機能を搭載していた)といったファミコン自体の拡張性に重きをおいていたことに対し、「ニンテンドウパワー」はより安価で安定した書き換え機能に重きをおいたサービスであると言える。

 

具体的な手順は、まず専用の空カセットを購入し(白ロムですと言わんばかりの白いカセットだ)、ローソンのLoppiにて欲しいゲームを選択する。

そうして出てきた注文用レシートと空カセットを持ってレジにてお金を払うと、店員さんがスーパーファミコンを模した専用のマシンにガチャッと空カセットを差し込み、選択したゲームを空カセットに書き出してくれるというものである。

私も少年のころ何度か利用したが、店員のお姉さんがカセットをマシンに差し込む様が妙にシュールだったのと、書き込み完了までの待ち時間がとてもワクワクしたことを覚えている。平行して販売されていた説明書を兼ねたカタログもボロボロになるまで眺めた。

 

お値段は1本1000円からと今となっては微妙に高い。容量はと言うとカセットひとつにつき最大で7本ぐらいまでゲームを書き込めたような気がする。もちろん何度でもソフトの書き換えは可能である。

しかし「ディスクシステム」が初期費用15000円ほどだったことに対し、 「ニンテンドウパワー」は空カセット(たしか2000円ちょっと)だけで済むのは手が出しやすかった。

そしてなんと言ってもローソンのLoppiでサービスが受けられるというのが非常にシュールで、ゲーム業界の最先端を感じたものだった。

 

個人的に印象に残っているソフトは『ファイアーエムブレム紋章の謎』と『スーパーファミコンウォーズ』である。

ファイアーエムブレム』は実はソフトを持っていたのだが、当時のスーパーファミコンのカセットはふとした拍子にセーブデータがすぐ飛んでしまい、最大の敵はカミュでもガーネフでもメディウスでもなくセーブデータのご機嫌だ、と言った具合で、いくらステージをクリアしたところでセーブデータが長大な冒険に耐えられず膨大な時間と苦労があっという間に無にかえったものだった。

書き換え用カセットではそんなことはなく、メリクルソードを持ったゆうしゃオグマ以上の安心の中でようやくメディウスを葬ることができたのは感慨深い思い出だ。

 

スーパーファミコンウォーズ』は「ニンテンドウパワー」専用ソフトで、つまり書き換えサービスを受けなければプレイすることができない代物だった。

ファミコンウォーズ』のリメイクと新作を兼ねた意欲作で、シンプルで奥が深い戦略シミュレーションと、とにかくその膨大なボリュームが心を打った。

 

今となっては家にいながら専用機器を買うこともなくレトロゲームがプレイできる。普段当たり前に享受しているサービスだが、そんなサービスの裏にもメーカーの努力と工夫の歴史がある。

技術の進歩にここでもう一度感謝と賛美を送りたい。

ボードゲームから見るシンギュラリティ――機械が人間を超えるとき

シンギュラリティ(技術的特異点)という言葉が近年注目を集めている。

人間が人間の知能をわずかでも上回った人工知能を作ることができたならば、その人工知能も同じように自らを上回る人工知能を作り、その人工知能もまた自らを上回る人工知能を……というサイクルが生まれ、そうして作りだされた人工知能は人類にとって多大な恩恵をもたらす可能性を期待される一方、その「人知をはるかに超えた」人工知能の知見から、人類が到底予見し得ない危険が降りかかる可能性も指摘されている。

まるで『ターミネーター』のような話だが、つい最近までSFの中の出来事だった問題が少しずつ現実味を帯びてきているのはたしかである。

 

このようなシンギュラリティの発生自体はもう少し先のことになりそうだが、機械と人間の知能競争は古くから人々の関心を集めてきた。中でも最も身近な例となるとボードゲームにおける人間とソフトウェアの戦いが上げられるだろう。

こうしたソフトウェアの進化は正確に言うとシンギュラリティの問題とは少し異なるようだが、ひとつの側面として語ることができる。

ボードゲーム、特に理論上先読みが可能であるとされる「二人零和有限確定完全情報ゲーム」に分類されるチェスや将棋、囲碁やオセロといったボードゲームにおいてその研究の歴史は古く、その歴史は人工知能の歴史と共にあると言っても過言ではない。

 

近年は特にコンピュータ将棋の大躍進が記憶に新しいだろう。プロ棋士スマホ活用疑惑事件や、「電王戦」におけるプロ棋士とソフトウェアの対決は大きな話題となった。

将棋のコンピュータソフトウェアは近年すでにトッププロと同等かそれ以上の実力を持っているとされ、人間と競技する役割はついに終わったとされている。

 

他のボードゲームを見てみても、チェスや囲碁もすでにトッププロ以上の実力を有していると言われている上、オセロは6×6の盤面において完全解が出ており、チェス盤を利用してプレイするチェッカーというゲームではすでに「双方が最善を尽くした場合必ず引き分けになる」という完全解が出てしまっていて、言ってしまえば「ゲーム自体がコンピュータによって終わりをつげた」ゲームとなってしまっている。

このように二人零和有限確定完全情報ゲームにおいてみれば、理論上は「先手必勝」「引き分け」「後手必勝」の解析が可能であるとされ、近い将来ゲームが解析されてしまった場合は将棋のトッププロ羽生氏が言うように「駒の動きを変える」などのルール変更によって対応がなされるかもしれない。 

 

果たしてボードゲームプレイヤーにとって、人生をかけて取り組んできたゲームが文字通り終わりをつげるという事実は、幸せなことなのだろうか。それとも不幸なことなのだろうか。

私のように「ゲームと言えばビデオゲーム」と、小さいころからコンピュータ相手にゲームをプレイしてきた人間からすれば、コンピュータはそもそも「手頃な難易度を与えてくれる存在」であり、努力すれば最後には勝たせてくれる、という印象があるものだ。

ビデオゲームにおいて見れば、人間ははじめからコンピュータに負けているのである。だからこそビデオゲームの対人戦は面白い。

しかしボードゲームは違う。メジャーボードゲームのほとんどはコンピュータの歴史以前からある対人を目的とした古典的ゲームだ。効率化された定石を何百年とかけて見出だし、あるときは活用し、あるときは捨て、まさに日進月歩で人間に培われてきた血の技術こそがボードゲームの歴史なのだ。コンピュータは現代においてあっという間にそれを鯨飲馬食し、圧倒的に振る舞う。

それは残酷なことのようにも見える。しかしある意味ではとてつもなく素晴らしいことでもあるはずだ。トッププレイヤーの誰もが立って見たかった境地がそこにはある。

 

ボードゲーム界では今まさに、機械が人間を超えようとしている。そこには数々の人間の複雑な想いがあるはずだ。しかしそれは、人類にとってひとつの歴史的瞬間であることは間違いないのである。

 

私は勝てる。ソフトのプログラマーは人間だが、私のプログラマーは神なのだから。

チェッカー世界チャンピオン マリオン・ティンズリー

CoD新作はWWⅡに決定!FPSにおける原点回帰とは

先日ついに大人気FPSシリーズであるCoDこと『コール・オブ・デューティ』の新作が発表された。

CoDを再解釈した原点回帰」「地に足がついた作品」を掲げ、戦闘の舞台はWWⅡになるそうだ。

 

ファンの間で特に注目を集めているのは「地に足がついた作品」という言葉であるが、これは最新作『CoD:IW』を筆頭に未来戦をテーマにした近作がお世辞にもファンの期待にこたえたものとは言えず、ブーストや壁走りといったスピード感溢れるアクションは一部には好評なものの、従来のファンはやはり近現代戦以前をテーマにした重い世界観を求めていた模様。

毎年発売するゲームということもあり最近はあまりゲーム性の変化も見られず、「焼き増し」と言われてしまうこともあって、失望と『WWⅡ』への期待からかファンのコミュニティでは「未来戦の厄落としはIWで済んだな」「いつまでゾンビが本編なんだ」とまで言われてしまう有り様。

つまり「ブーストで宙を舞うなどの現代離れしたアクションがなく」「過去作をただ焼き増ししたような浮わついた作品ではない」という二重の意味で「地に足がついた作品」という言葉にファンは期待しているということである。

 

しかしそれよりも気になるのは「原点回帰」という言葉ではないだろうか。

というのも、最近ではMOBA要素を織り込んだ『レインボーシックス シージ』や『オーバーウォッチ』といった作品がFPS人気を牽引しており、これらは紛れもなく「新しい形」で人気を得たFPSである。

もちろん古くからCoDファンの熱量や人口はFPSの中でも圧倒的ではあるし、このままCoDファンの期待をバッチリと受け止める作品になることを想像しただけでも素晴らしいのだが、その「原点回帰」路線は今のFPS業界で――それこそR6SファンやOWファン、そして新規ファンをも巻き込めるような作品になるのだろうか。

 

思えば、CoDと双璧をなす人気FPSバトルフィールド』シリーズも現状を不安視されているシリーズである。

BF3』でたくさんのファンを獲得したものの、『BF4』では大味なゲームとなりファンからは不満の声が上がった。

丁寧な調整を重ねた末結果的に人気作となったが、その後発表されたeスポーツ路線を意識した『BFH』はマップやリスポン等細かい部分で惜しい作品となってしまい、人気は振るわなかった。

そして最新作『BF1』では『BFH』のeスポーツ路線の失敗を取り繕うかのような「お祭りゲー」「体感ゲー」路線であり、極端な路線の連発からかこちらもファンから「次回作こそは」の声が上がってしまってるシリーズである。

 

どんなゲームもシリーズを重ねるごとに古いファンを意識しながら新しいことを上手く取り入れていくことは難しくなっていく。

『WWⅡ』は「対戦FPSと言えばCoD」という栄光の時代を取り戻せるだろうか。早くも秋が楽しみである。

アップデート・DLC全盛時代!スト5から見る調整ありきのゲームバランスの是非

最近のゲームはインターネット環境がほぼ必須となり、ハードやソフトもそれを前提に発売しているものがほとんどとなってきています。

中でも大作ゲームはDLCを積極的に発表し、とくに対戦ゲームなどでは四半期や一年単位のロードマップを事前に発表する「シーズン制」を導入、継続的にゲームバランスのアップデートを行い、ひとつのゲームを長く遊んでもらうと同時にコアユーザーによる課金収益を狙っていくことが主流となっています。

 

しかしこのアップデートありきのスタイルには賛否があり、とくにソロプレイのゲームなどではお気に入りのゲームを末永く楽しめる一方で「出し惜しみをするな」「未完成品を売るな」というような言われかたをされてしまったりすることがあります。

それに比べると対戦マルチプレイがメインのゲームなどではまだ馴染んでいるように思いますが、万人が納得する調整を行っていくのはやはり難しいようで、アップデート後には少なからずコミュニティが荒れるのが恒例となっています。

 

先日も『ストリートファイター5』のプロゲーマー・ボンちゃん氏が「スト5は幼稚園児が調整をしてるようだ」と苦言を呈したのが話題となりました。

 

格ゲーはそもそも「ゲームの仕様を網羅していく」ことが直接勝率につながるゲームなので、ユーザーが攻略を進めるうちに必ず細かいアクションやフレームワークの面で仕様だかバグだかわからない挙動が見つかったり、いわゆる「壊れた」性能のキャラや技が発見されたりします。

かつ技の発生や硬直がコンマ何秒変わっただけでキャラの使用感がガラリと変わることも多く、格ゲーのゲーム性において調整は最もデリケートな問題のはずなのですが、スト5はキャラコンセプトまで歪めるようなかなり大味な調整をし続けたことがボンちゃん氏の発言につながったのだと思います。

 

もちろん、アップデートがあれば何ヵ月前に発売したゲームでも賛否が出るほど盛り上がるのが良くも悪くもアップデートの力ではあります。

「アップデートが来たならとりあえずまた一回さわっておこうかな」という気になります。

 

しかし前述の通りいわゆる「有料ベータ」と揶揄されるような「とりあえず発売しておいて中身は後から調整すればいいじゃん」という考えが透けて見えてきてしまうゲームも残念ながら存在します。

追加コンテンツやゲームバランス調整というものの運営自体が微妙なバランスの中で回っているのが現代のゲーム業界事情と言えるのかもしれません。

ゲームは頭が悪くなる? ゲーマー達の愛すべき偏った知識

「ゲームばかりやっていると頭が悪くなるぞ」

私が幼いころは大人たちにそんな言葉をよく聞かされたものです。ファミコンやゲーセンが社会現象となり少し落ち着いたあとで、ゲームに対する社会の風当たりがとても強かった時代でした。

今でも「ゲームばかりやっていると頭が悪くなる」の言葉の真偽は不明ですが、何事ものめり込みすぎずほどほどがいいのは当然のこと。頭が悪くなる、とは言わないまでも勉強や仕事など本業の邪魔になる、と言われてしまえば心当たりは山ほどあります。

 

もちろん「ゲームを勉強に活かそう」というゲーム、とくに大人たちも巻き込んで大ヒットとなったニンテンドーDS脳トレ』ブームは顕著な例ですが、教育用ゲームというものも古くから一定の数はありました。

しかしそれとは別に、純粋に我々ゲーマーがゲームから得た社会で役に立つ知識というものも少なからずあるはずです。

それはもはや「ミステリー小説を読んでいたらトリックの鍵となった自然現象に詳しくなっちゃった」的なトリビアのレベルですが、今日は「ゲームで頭が悪くなる」を論破することはできないまでも、「ゲームだって少しは役に立つんだぞ」ぐらいの屁理屈ならばひねり出せるのではないかと筆をとった次第であります。

 

まず思い当たるのは、スポーツの知識などが良い例なのではないでしょうか。

とくに「ライトゲーマーの家には大抵ある」でお馴染みの『パワプロ』『ウイイレ』シリーズから、少なからず社会における雑談の場で役に立つ情報を得た人はいるのではないでしょうか。

 

事実私は本物の野球をよく知らないうちからパワプロをプレイし、野球選手の知識はもちろん、インフィールドフライやエンタイトルツーベースなどの比較的細かいルールまで幅広く知ることができました。

そこから本物の野球にも興味を持ちはじめ、選手名鑑を買ってみたり、試合のテレビ中継を見てみたり、実際に野球場に足を運んでみたりと活動的になれたのもプラスではないでしょうか。

ウイイレ』の方はあまりハマりませんでしたが、かわりに『サカつく』にハマったおかげで2002年くらいまでのJリーグチームなら今でもわかりますし、ユース制度など組織のことについても知識を得ることができました。

こういったことにはもちろん副作用もあって、選手の顔がよくわからないくせに名前を聞けばゲーム上のステータスだけはよくでてきたり、「とりあえずシェフチェンコって人が最強なんだろ」などと自分がハマったゲームの年代で知識が止まっていたりします。 

 

他にも、知人ではRPGから得た知識で北欧神話にのめり込んだり、クトゥルフ神話を調べるうちにラブクラフト小説を読みはじめた人もいます。

 

……まあ、言ってしまえばゲームで得られる知識ってその程度なのですが、その後何か始めてみたりする原動力になるような、ある種の感情の入口という役割をゲームはじゅうぶん果たせているのかなぁ、とは思います。

そんな私も、FPSのせいで今では軍オタまっしぐらになりつつあります。悪いことではない、はず。